ジャスト・ア・ゲーム(釣りと悟り)
ゲームの良さはゴールが明確に設定されていることだ。
仮説創造の余地が十二分にあり、そして仮説に迫るまでのプロセス、もしくは解答をゲーム外に波及することができるゲームこそが普遍的なゲームとなりえる。
羽生善治は将棋について「ジャスト・ア・ゲーム」と言い切った。
人格と将棋の強さに相関があるという棋界に存在していた風潮における「酒、女、バクチは人格涵養の一部である」という言説に対しての文脈である。
ここから19才の天才ゲーム解析士の躍進が始まった。
この「ジャスト・ア・ゲーム」についてはその後の羽生の活躍もあり、現在では肯定的に捉えられている。要因は羽生のゲームの強さだけではなく、むしろ羽生なりのゲーム観、ゲームの楽しみ方が他者のゲーム観と比較し確立されていたことだろう。
羽生にとっての将棋の面白さは盤上からで十二分に得られるものであり、その主張に対して横槍を入れる思想については排除するという自分本位が見て取れる。
「ジャスト・ア・ゲーム」とは言いつつも楽しみ方については規定していないところがこの台詞の妙であろうか。
私が普段から行っているゲームは釣りである。釣りの魅力はと自身で問うた答えが本ブログの説明になっている「郷愁×ロマン×釣理」であり、このフレームであれば釣りの魅力を漏らしていないだろうと現時点では考えている。
「釣理」とは釣る理屈であるが、如何に技術が発達したとしても現時点では何故魚がそのルアーに食いつくのか、どのタイミングで喰いが立つのかということは誰も確定できておらず経験に頼っている。
本稿で述べたいのは因果関係の仮説を積み重ねていく時のプロセスについてである。
このプロセスが釣りを東洋思想にフィットする深淵な趣味にしていると常々考えている。
因果関係をイメージするのが直感的に難しいのが釣りである。
例えばということで挙げてみると将棋の詰め筋、あるいはスマッシュブラザーズのダメージの与え方というのは論理的に辿れ、再現性があるものであるが何故釣れるのかというのはイメージしづらくないだろうか。
釣りをしている方は釣りをする前の経験値がない感覚に戻って欲しい。
アオイソメを食べるハゼのイメージならば釣りをしていない人であってもイメージ出来ると思うが、糸へのアタリの出方とハゼがエサを食っているということを正確にリンクさせるのは難しいのではないだろうか。
ハゼ釣りではプルプルの前のチクッっとした感覚を取れるかで釣果に大きな差が出るがこれは吸い込んだ瞬間が微かに感じ取れるということを信じられているかイメージを持っているかの違いなのである。
他にもルアー全般がそうであるし、鯛ラバで釣るのも何故釣れるかの因果関係のイメージが人間には難しい。何故上手い人間が釣れるかというと経験から因果関係のイメージを確立し派生させているからである。
脆弱な因果関係のイメージを感覚的に強固にしていく作業は一種の「悟り」というのではないだろうか。西洋哲学的な論理関係を理解すれば分かったということではなく論理抜きにわかったと思えば大悟であり、見た目ではわからないが以前とは違う自分になる。
禅僧に比べると悟りは小さな規模かもしれないが、この悟りを得た時の幸福感とそれをもとにして仮説をバージョンアップさせていく点が釣りのゲームとして特異である点なのではと思っているのだ。因果関係をイメージしづらいことからくる実感の重要性が成り立っているのだ。これが性別、年齢、知性問わず全人間が体験できるということも特異なゲームなのではないだろうか。
思考のブラッシュアップを単独で出来るという点も良さであろう。
私は大学生のとき年間300日川にいた。
ダイワ精工が提供している「The fishing」というテレビ番組の30週年記念の回で、海のルアー釣りを世に広めた村越正海とダイワが若者を若年層のうちから釣りに親しめようと運営しているヤングフィッシングクラブからの抜擢であろう若者が「釣りとは何か」最後にまとめとして問われていたが、村越正海が「人生そのものであり考え方などベースは全て釣りにある」と答え若者は「コミュニケーション拡張のツール」であると答えていた。
若者は情報消費社会の代表であると感じ、村越正海には釣りが確定情報を使用するだけのゲームではないことを代弁してもらった気になり共感したのであった。
どのゲームに共通することでもあるが結果だけではなくどれだけ楽しめるかが重要なのだ。羽生善治が「結果だけでいいならジャンケンすればいいとおもいますよ」と言ったように。
「イントゥ・ザ・ウッズ」私のディズニー観
「イントゥ・ザ・ウッズ」は実験的な意欲作である。
日本公開されて間もないが評判はよくないようだ。何故評判がよくないのか。
作り手が何をメッセージとして提示しようとしているかが不明瞭だからである。
「イントゥ・ザ・ウッズ」映画化の意図がどこに在るのか、何故このタイミングなのかが分からなければ自身が持つ「ディズニーの感じ」と真っ向から衝突する。そして意味の分からない映画だと片付けてしまうであろう。
そもそも「イントゥ・ザ・ウッズ」が分かりやすく、合理的であったらディズニーが意図することに反するのだ。
【あらすじ】
アカデミー賞®6部門受賞の「シカゴ」の巨匠ロブ・マーシャル監督が、ブロードウェイの生ける伝説=「ウェスト・サイド物語」のスティーヴン・ソンドハイムのロングラン・ミュージカル「イントゥ・ザ・ウッズ」を映画化。
「イントゥ・ザ・ウッズ」の登場人物は”魔女”に”シンデレラ”に”赤ずきん”、”ラプンツェル”に、ジャックと豆の木の”ジャック”etc・・・。
これは、ディズニーが、おとぎ話を卒業したおとなたちに贈る、世紀のミュージカル・イベント。(「イントゥ・ザ・ウッズ」公式HPより)
まずメッセージが不明瞭である理由について考えてみよう。
複数のメッセージが同列に並べられていること。(まとまっていないともいう)
これが不明瞭な理由だ。パンフレットを読めば理由は明確である。本作に関しては作詞家、脚本家のあとに監督という順番で映画化へのキーマンがいるようだ。順番に見ていこう。
ストーリーはあらすじの通り、そこから何を伝えていきたいのか。
作詞、作曲スティーヴン・ソンドハイム
「私の意見では、この作品は社会的責任を描いたものだと感じています。」
脚本、原作ミュージカル ジェームズ・ラパイン
「『イントゥ・ザ・ウッズ』は欲すること、願うこと、望むことを描いた物語です。……
最初は自分の欲するものを自分だけの力でどうやって手にいれるべきかというストーリーが、後には、彼らが力を合わせて、どのようにして全員にとってベストなことをやるのかというお話になるのです。」
監督、制作ロブ・マーシャル
「この物語の中には、家族というコンセプト、そして典型的な家族構造が、時が経つにつれてどのように変化していくのかも書かれています。そして作品の最後には、この美しく、ユニークな家族が形成されます。」
鑑賞した人はこれだけで疑問が解消されるだろう。三人の様相が作品にそのまま反映されているのだ。混沌とし、すっきりしない理由はここだ。
指揮がとれていない点は完全に映画の失錯だ。
登場していない人物がいる。それがディズニーだ。
おとぎ話の語り部はディズニーである。宣伝に使われている「ディズニーが、“おとぎ話の主人公たち”のその後を描いた」の「ディズニーが」というところが多くの観客に足を運ばせる原動力なのは間違いない。
何故「ディズニーが」語ることが餌になるのかは分かりきったことだ。
「“おとぎ話の主人公たち”のそれまでを描いてきた」権威だからである。
ディズニーが「イントゥ・ザ・ウッズ」を制作する意図はどこにあるのだろう。
ディズニーはこれまでおとぎ話をどのように語ってきたのか、どう大衆へ浸透させてきたのか、ここから考えることとしよう。
「シンデレラ」を取り上げよう。
信じれば夢はかなうということがメッセージ。そしてプリンセス映画は王子と結ばれて夢がかなう明確且つ単純なストーリーラインを基礎に、ファンタジーと、逆境で色付けをあたえる。
信じれば夢はかなうというメッセージを同じ方法を用い、おとぎ話を下敷きにした様々な作品にのせて発信してきた。メッセージおよびディズニーの方法論はもはや世界中の人々にとって自明のこととなっている。
おとぎ話を単純で無毒なストーリーラインに置き換えること。
これがディズニーがとってきた方法である。
ウォルト・ディズニーの存命中から批判されていた方法でもある。
「人類の無限の可能性を陳腐なコミックに仕立てあげ、また昔ながらのまがいものの人生を真似て、真実の人生の可能性を否定している」
「ウォルト・ディズニーの映画が芸術を『無菌化』していると感じるのは、評論家だけではなかった。」(想像の狂気 ウォルト・ディズニーP553)
無菌化をディズニフィケーションという。
しばしば批判の対象となるディズニフィケーションについて私は捨象し単純化することはメッセージを発信する手法として賞賛されるべきでありディズニーの強さだと思っている。自身の価値観を絶対視し価値観が伝わる方法を模索してきた集団がディズニーだ。
私の嗜好としてはディズニーが発してきた「メッセージ」には共感するが、ど真ん中ではない。
だが、方法の模索をドライブさせるイマジネーションへの信仰、ディズニー用語でいうと想像力と技術力を融合させた「イマジニアリング」への自負と、自身の人生観を「ぶらさない」どころではなく「社会において当たり前の価値観としてしまう」自分本位、この2つについては深く心を動かされている。(Fantasmic! はど真ん中)
「テーマが見つからなければ、人を感動させるような映画はつくれない。」
「ディズニーランドは完成することがない。世界に想像力がある限り、成長し続けるだろう。」(ウォルト・ディズニー)
ディズニーが「イントゥ・ザ・ウッズ」を何故このタイミングで映画化したか、自身が練り上げてきた方法が共感を呼ぶことが難しい状況となっているからだ。
ここでいうのは特におとぎ話をモチーフとした作品のことをいう。
ディズニーは自らの方法を絶対視することはなく、「方法」を皮肉るという手段をとることによりメッセージを伝えるという手法も利用している。
方法に固執しているということは全くない。
「魔法にかけられて」がその態度を端的に表すし、「アナと雪の女王」については散々言われている通り、これまでの方法をモダナイズしたものである。
興行的に大ヒットはしているが、「アナと雪の女王」で見せたストーリーラインはこれまでどおり女の子たちの理想像となるであろうか。
価値観が多様化したことにより全女性共通の価値観を提示することは難しい。
「アナと雪の女王」では価値観が古くからそう変化のない姉妹愛で終幕となったが、姉妹愛は日常の延長である、これまでのキス、結婚というターニングポイントとは性質を異とする。「アナと雪の女王」のストーリーは女の子たちの憧れにはなりえないだろう。エルサが自分本位に生きることを決めた瞬間をラストに持ってくることが出来ればそれはディズニーが提示した生き方となっただろうが受け入れられただろうか。
ディズニーがこのタイミングで「イントゥ・ザ・ウッズ」を映画化することは、今後の方法についての態度を観客に表明することだと私は思う。
自分自身との対話であるとも言えるかもしれない。
「マレフィセント」はすでに次は「シンデレラ」をリメイクするが、それはクラシックを現代によみがえらせる作業である。
「イントゥ・ザ・ウッズ」はおとぎ話本来の可能性を探求する作品だ。
つまりディズニフィケーションがなされる前のおとぎ話の効能について光を当てている。これはディズニーがやるからこそ意味がある。
おとぎ話には説話と、不条理が同居する。不条理というのは論理的ではないということ。現実の人生は合理的に納得して進むものではない。
不条理が現実を包含させる役割を果たす。
「イントゥ・ザ・ウッズ」は明らかに不条理を描こうとしている。
悪いことをしていない巨人を殺す。舞踏会から3度逃げ出す。妻の唐突な死。
ストーリーに納得いかない?それはそうだ、本来の「おとぎ話」への回帰なのだから。
方法を限定しないところがディズニーの強さであるが、今回は観客にとってショックが大きかったようだ。ある意味これまでの方法とは真逆の方法をとっているのだから。
ディズニーでなければ巨人からモノを盗むところでこれは不条理を描いているのだなと観客も諒解して見ることが出来たかもしれない。
ディズニーが「それまで」のように「そのあと」を描くだろうか。ディズニーはそんなに甘くない。イマジネーションをドライブに停滞しないのがディズニーだ。
さて、おとぎ話を描いたという観点でみるとストーリーのまとまりの無さも納得がいくはずだ。この心が落ち着かない状態がおとぎ話の効能なのだ。
浦島太郎が竜宮城にいくだけの話なら子供たちはその後記憶しているだろうか。
(何故ミュージカルの評判がいいのか考えれば、多くの人が陥穽にはまることはないと思う。おとぎ話であることを前提に観劇しているのだから楽しめるのだ)
世界はディズニーが想像する以上にディズニーの方法に囚えられている。
ディズニーが発してきたメッセージ以上に囚えられているかもしれない。
この後「シンデレラ」「ピーターパン」「不思議の国のアリス」「ラプンツェル」「ダンボ」と実写化が控えている。単純にリメイクしてもある程度通用すると思うが、ディズニーはそう簡単なことはしないだろうと信じている。
(ウォルト・ディズニーは「自分の映画を作るのは好きではない。私は新しいものを見つけて、新しいコンセプトを開発するのが好きだ。」と断言しているのでここ最近の安直に続編をつくる傾向は堕落であると思うがね)
「イントゥ・ザ・ウッズ」は観客への「我々は固執しない」という宣誓だと私は信じている。
失恋ショコラティエの構造(確定版)
失恋ショコラティエが完結しました。
こんなに発売日を楽しみに待っていた漫画はありませんでした。
隙無く理性的に組み立てられているが、感情を揺さぶり読者に語る余地を残している漫画。
最終回を迎え、構造が確定した。
まつりの結婚式という大団円を迎えた後、やや唐突に爽太が独白して終止符が打たれる。
何故爽太の独白で幕が引かれるのか。
これが『失恋ショコラティエ』のメインテーマだからである。
「もしあなたを好きになっていなかったら------このチョコレートたちもエクレアもガトーショコラもスプレッドもパンデビスもムースもこの店も何もかもここにはなかった すべてあなたが俺にもたらしてくれた」
この漫画は「恋を糧にする芸術家」の話である。
「恋について」も「男を虜にする女とは(悪女とは)」もメインのテーマではない。
『失恋ショコラティエ』はメインテーマとなりえるクラシカルなサブテーマをいくつも内包しており読者をミスリードしやすい。そのため、作者は唐突であっても独白をさせて最終回を迎えさせている。
1巻においても「ソータがサエコを好きになったことでこんなお店が出来たのならそれはすごく価値のある恋愛だよ。僕は認める。その恋の価値を僕は認める」と作者の代弁者であるオリヴィエに語らせている。
徹頭徹尾テーマは一貫しているのだ。
テーマを確定させた上で構造の把握に移ろう。
この構造が女性向け漫画としてとても特殊かつ異質で非常に面白い。
前回の記事で書いたが作者の代弁者であるオリヴィエに1巻でこう語らせている。
「ソータはサエコさんのことホントーに好き?」
「サエコさんのことは諦めたんだよね?結婚するし恋は終わりだよね?」
「サエコさんはフツーの女だよ ちゃんと中身開けてみて目を覚ますべき それでも本当に続ける気だったらフリンの覚悟決めるべき」
以上のようにサエコはフリンの価値がない女であり、現実的に成就するはずがないと断言している。ここでは爽太はオリヴィエの問いに答えない。考えない。
そして物語が進行して爽太はオリヴィエが予言したとおりの状況に直面する。そこで「離婚させて一緒になりたいとか結局そこまで本気でおもってなかったんだよ」とオリヴィエの予言通りの行動を取る。
つまりサエコとの恋は現実的に成就しないということが冒頭で明示されているのである。
(クライマックス近くの7巻でもサエコが店に居着いた際、「そのうち気が済んだらフラッっと家に帰るんじゃないかな」という爽太のセリフに対しオリヴィエは「その方がソータもジツは助かるし?」とツッコミをいれて前提の再確認をしている)
爽太は現実的に成就しないとオリヴィエに言われてもサエコの攻略を進めていく。それが本能的に、また経験則からショコラティエ(芸術家)としての成長に繋がることを知っているからである。
言い換えるとこの物語は爽太が芸術家としての成長のために結末がわかっている恋をして周りを巻き込む話である。
決してサエコは爽太を恋愛ゲームに引き込む悪女ではなく、爽太の成長のために引き込まれたにすぎない。
結末を明示したうえで物語を進行するのは「芸術家」の世間とかけ離れた特異性を明確にするのと、こちらのほうが強いであろうが、特殊な構造の中でメインテーマと密接に関連するサブテーマである「恋」を発現させ、これまでと違う角度から描く為である。
ヴァンパイアになり複数の候補の中から繁殖相手を選ぶ『黒薔薇アリス』、男性と女性、両方の性を持ち恋をするのはどちらの性の自分であるかを判断する『放課後保健室』、これらと同様に恋を描くための意匠である。
『失恋ショコラティエ』は成就しないと明示されている中での恋だ。
次にサブテーマであり最もボリュームのおおい「恋」について見ていく。失恋ショコラティエ以前の漫画において既に作者は「恋とはなにか」というクラシックなテーマに一つの結論を出している。
それは「理性を飛び越えた衝動こそ恋だ」ということである。『失恋ショコラティエ』においても明確に描かれており爽太に「正も誤もない それが恋だ」と明言させている。
構造的に成就しないということが明確に描かれていることに加え、サエコは既婚者であり社会的に非難されること、エレナというパートナーを裏切るということ、ありとあらゆる手を使い理性のハードルを上げることにより、それを越える際の劇的な「恋」を描き「恋」を明らかにしている。
また作者の代弁者であり究極的な傍観者オリヴィエがまつりに恋することも「理性を飛び越えた衝動こそ恋だ」ということの補強である。
これだけでも最高傑作になりえるが、「恋」に見えるようなモノ、具体的にいうと「理性的に作戦を練って相手にすきになってもらうこと」についても言及しそことの対比により作者の考える「恋」をより明確にしている。この試みは画期的である。
「理性的に作戦を練って相手にすきになってもらうこと」を明らかにするために作者がとった方法が恋をゲームだと考えているいわゆる「悪女」を解剖して丸裸にすることだ。恋愛ゲームが得意なサエコのような女は恋愛漫画においては、典型的なキャラクターである。ただしこの典型的なキャラクターをここまで掘り下げた漫画は他に知らない。
「爽太くんにあたしのこと好きになって欲しいって本気で思います。他に女の子も周りにたくさんいると思うけど頑張ってあたしのこと一番に好きになってもらおうってそれが『本気で好き』ってことですよね?」
「いやそれは違うでしょ!!そういうのはゲームみたいなものでしょ!?それが遊びだって言うんですよ!野球や将棋じゃないんだから!!」
「えっ でも野球や将棋だってやる人は本気で頑張ってますよ?一生懸命自分を磨いて鍛えて・・・相手の気持ちや自分にできること考えて・・・」
「薫子さん『本気で好き』ってどういうことですか」
この会話に戦慄を覚えた読者は多いはず。作者は「恋」は理性を飛び越えた衝動こそ恋だと規定している。作者はサエコの問いに答えることができるが、答えられる読者は少なかったであろうと思う。せとな説を採ると衝動こそ恋なのであるから衝動を振り返る難しさと鬱陶しさから言語化の機会をとっている人はすくなくて当然である。「恋」に見えるようなモノと対比させ読者に「恋」とはなにかを考えさせているのである。
副次的に「恋」に見えるようなモノについても結論をだしている。
「理性的に作戦を練って相手にすきになってもらうこと」を実践しているのは「正も誤もない…」という前の爽太とサエコの2名である。
対比させるべきなのはエレナだ。エレナは登場の瞬間より爽太と同じ「片想い」をしている設定となっていた。この設定が生きるのは恋愛ゲームの勝ち方について考えるときである。
爽太とエレナは配偶者がいる相手に片想いをしているというように設定されている。二人は恋に恋をしている状態であり、作者がいう「恋」の段階には入っていない。
爽太はサエコを陥落させ、エレナはバンドマンに失恋する。この差異は「理性的に作戦を練って相手にすきになってもらうこと」を実践しているか否かである。
「恋」に見えるようなモノにおいてはスポーツ選手のように、棋士のように頑張らないと勝てないということを爽太とエレナを対比させることにより結論づけている。
(エレナの役割としてもう一つある。爽太と比較して最終的に得たものを対比していくとテーマの欄で述べたように爽太はサエコに恋することによって芸術を成就させるが、一方エレナはフードコーディネーターの資格を取ろうかなぁと何も得ていない。これは芸術家と凡人の違いを表している。えげつないと思う。)
これ以外にも作者の意図が散りばめられていて語る余地はまだまだある。素晴らしい漫画だと思う。
今回読者を惹きつけたのはやはり「恋」と「恋に見えるようなモノ」への作者の深い洞察である。
「もしあなたを好きになっていなかったら------このチョコレートたちもエクレアもガトーショコラもスプレッドもパンデビスもムースもこの店も何もかもここにはなかった すべてあなたが俺にもたらしてくれた」
このセリフよりも
「正も誤もない それが恋だ」
「薫子さん『本気で好き』ってどういうことですか」
これに心揺らされる。『失恋ショコラティエ』の7巻は作者の恋愛観の到達点である。
贅沢は承知で、より高次元の作品を求めるとしたらテーマである芸術家であることのより深い洞察を次回以降で望みたい。ここまで考える漫画家である。芸術についても考えに考えぬいているであろうと思う。
考えさせられ単純に面白く作者の人生観の高みについても畏敬の念を覚えた。
脳内ポイズンベリーの最終回についても期待しています。
失恋ショコラティエの構造
まず構造を読み解くにあたって重要なのがオリヴィエというキャラである。
オリヴィエがこの漫画の狂言回しであり客観的で正確な状況判断を行い、進行中のストーリーについて作者と読者の認識を一致させる役割を担っている。
私はここまで考えて書いているけどわかってる?わかってなさそうだからオリヴィエを使って解説しよっかな?という手法である。オリヴィエが外国人でカタコトの日本語を使ったりアニメオタクであるという設定は作者の意図を伝える装置であることを隠す意匠である。
(同時に連載している「脳内ポイズンベリー」では作者の思考を今回のオリヴィエのような最適解だけ提示するのではなく理性的に決断を下す前の瞬間瞬間の作者の思考を描こうとしている。)
オリヴィエは物語の進行には介入しない。
あくまで物語の進行は爽太の主観的行動が担っていく。
爽太は「学年一のイケメンを食い倒してきた何を考えているのか分からない女を陥落させること」をゴールとして「敷居を少し高くして向こうから寄ってくるようにする」
方法で達成を目指す。これが物語を進行させていく爽太の主観である。
敷居を高くすれば向こうから寄ってくるかもしれないというのが爽太のサエコの分析であり、分析が正しいのか、攻略が上手くいくのかに読者は惹きつけられページを進めていく。
一方でオリヴィエが1巻の爽太が敷居を少し高くして向こうから寄ってくるようにする作戦を決行しようとするその瞬間をどのように認識しているかというと
「でもサエコさんのことは諦めたんだよね?結婚するし恋は終わりだよね?」
「このチャンスにサエコさんウチに呼んでやっちゃいなよ!っていうかねソータはサエコに夢見すぎ。サエコさんはフツーの女だよ。ちゃんと中身開けてみて目を覚ますべき。それでも本当に続ける気だったらフリンの覚悟きめるべき」
以上のように既婚者であるサエコとの恋が現実として成就したとしても、フリンとなり社会的に祝福されないこと、また爽太が憧れているサエコについても憧れの存在ではなくフツーの女であり、フリンの価値がないことを示唆している。
ただし、爽太は主観的に動く。どんなに客観的視点を持っている人間でも当時者となれば主観的に動く。狂言回しの役割をあたえられているオリヴィエがまつりのことになると感情的に動いてしまうのはこのことを強調する為である。
予想として最終巻は、1巻ですでにオリヴィエが明言した客観的現実と向き合う巻となるだろうと予測している。
オリヴィエを用い、爽太が作戦通りサエコを陥落させたとしても大団円はありえないことを読者に提示した上で物語を進行させる。ここが構造として面白いところで、水城せとな先生の「正しいか正しくないかは大した問題ではない。そこを乗り越えた主観的行動こそが面白さである」という主張がある。
オリヴィエがこの漫画の狂言回しであり客観的で正確な状況判断を行う。と書いたが俯瞰的に見ている水城せとなの代弁者なのである。
「(サエコがろくでもない女だとしても)ソータがサエコを好きになったことでこんなお店が出来たのならそれはすごく価値のある恋愛だよ。僕は認める。その恋の価値を僕は認める」
失恋ショコラティエについて①
失恋ショコラティエ、脳内ポイズンベリーが次巻で最終巻となる。
提示されるラストを受け入れるだけではなく、最終巻が出る前のこのタイミングで、思考の触媒となったシーンから自分なりの結論を導き、それをラストによって打ち壊されたい。まず失恋ショコラティエから整理する。(言及するのは現時点でのコミックス最新刊である8巻までとする。)
水城せとな先生の漫画が好きなのは「主題がある」からである。
コミックス7巻の巻末コメントで作者自身が語っているように考えすぎな漫画である。
登場人物の心情を俯瞰で捉えており、登場人物への主観的感情、肩入れは感じられない。
あくまでキャラクターは作者が「考えすぎて」到達した一つの結論を読者へ伝える為の駒の一つとなっている。客観的に物事を捉える男性的な思考パターンであるとも言える。
この思考をベースに「登場人物の感情の動き、思考」を精しく繊細なカットで描写し、同時に洗練された言い回しで言語化し、読者は主題に直截的に直面しているとは感じぬまま瞬間的に心を動かす。
その到達した結論の深さと、深さを増幅させる表現力にゾクゾクさせられる。
4巻の巻末コメントにおいて
「これこそ普通、ミズシロ史上最もフツーのお話ができた!…まぁ逆に、読者さんが楽しんで下されば別にどっか変でもいいや!と思っていますけど✿」
このコメントは主題を的確に面白く伝えることができれば、意匠にはこだわりがないことをあらわしている。
「普通の人の考を聞いて見ると小説家は女の衣装やら、髪のもの、または粋人や、田舎者の言葉の遣いわけをやって達者に文章をかくものだと思っているが、それは浅薄な考です。普通の小説を作るものの資格は、第一が、人間の行為行動(それは大部分道徳に関係があります)を如何に解釈するかの立脚地を立てるにあると思います。だから学問がなければならぬと思います。学問がなくとも見識がなければならんと思います。むずかしくいうと人生観というものが必要になります。」(夏目漱石 『文学談』)
次回以降で失恋ショコラティエの構造の整理、主題に付随するサブテーマへの私の見解の披瀝を行ってラストを待ちたい。
電王戦から釣りの面白さ、掴み方を考える。
釣りという趣味を持つと同時に、指せないのに関わらず将棋メディアにも目を向けてきた。ずっと将棋が羨ましかった。
将棋のゲームとしての分類は二人零和有限確定完全情報ゲームである。
有限:選択肢が限定されていること。
確定:指し手の意思以外ランダム要素が入り込まないこと。
完全情報:状況の全体像(そこに至るまでの情報)を指し手も観戦者も確認することができる。
将棋は二人零和有限確定完全情報ゲームの代表であるが、選択肢が有限とは言いつつも10の220乗の選択肢があると言われており、コンピュータを駆使したとしても最善手を得ることは難しいと言われてきた。チェスはコンピュータに攻略されたが、将棋が攻略されることは何時になるか想像がつかないと言われていたのが10年前である。
プロ棋士は確定、完全情報という要素を用いて論理的に帰納的に指し手を追求するがそれは無限の選択肢から抽出した手であるので感覚的でもある。
将棋界では羽生善治が七冠取得後、勝負ではなく棋理の追求にこだわることを明言し、確定、完全情報という強みを活かす知の共有を意図的に図った。自分の考えを全て開陳したのである。将棋界は情報社会の最先端の実験場となった。
このことにより、長年悪手といわれていた手が十分通用する手であるとか、曖昧模糊であり約束事となっていた序盤が勝敗を分けるキモであることなどが判明し、将棋というゲームの時間が大幅に進められた。
この分からなかったことを掴んでいく過程こそが答えを知ることよりも面白いことだと棋士および将棋界の人間は感じてきただろう。
釣りにもこれは言えて釣果ではなく釣りの本質に近づくその一歩こそが最高の満足感を与えてくれるものであると考えている。
一歩を掴むまでのスタンス、方法について将棋と釣りは共通するものがあるとしてシンパシー、知的興奮を感じ将棋界の動向を書籍で追っていた。
将棋界を羨ましいと思っていたのは競技者、メディアの「感覚の言語化」能力である。
将棋の特性として間口は広いが、奥深さがあることは周知の事実であり観戦者は棋士の解説を通じて戦況を理解することが慣習的に行われてきた。
プロとしてお金を払ってくれる人達への解説をしなければいけないという前提があるため棋士は思考パターンを言語化することが義務付けられている。
この義務と棋士の卓越した頭脳が組み合わされ、抜群の言語化能力の形成、ならびにそれに基づく情報の開陳がなされている。メディアも棋士の思考を一に優先する。
この「感覚の言語化」能力ならびに情報の開陳形式が釣りとの大きな違いである。
釣りは無限不確定不完全情報ゲームであり不確定、不完全情報であるために言語化することが将棋より難しいことに加え、無限、不確定、不完全というこれらの複雑すぎる要素が釣人の技術を相対的に軽んじることにつながり合理的に言語化する能力が問われない。
釣りのテレビを見てみると納得する根拠を示せないのに関わらず一言目は「今日は渋い。」
状況の説明もせずに特定のルアーを使用し「このルアーだから釣れる。」
こんな状況がすぐに散見されるだろう。
言語化が難しい上に、難しい故に釣り人も釣りメディアも「考え方を言語化する」能力が低いのである。
読み物としても映像としても面白いものは殆どない。
目に見えるロッドやリールといった本質から細分化されて決定されるものが本質と比べやたらとフューチャーされるというおかしな状況になっている。
その中ではバス雑誌(basser)は最も進歩的であり、シーバスは10年前からすると遥かに考え方は進歩したが俗化した。シーバスの10年前の黎明期は釣果ではなく、プロセスに焦点があてられており非常にエネルギッシュで刺激的だった。いまだにシーバスマガジン2003年11月号「リバーシーバスの奥義」より読み込んだ雑誌には出会っていない。現在は初心者もそう考えるのが普通になっているが川のU字の頂点でシーバスが捕食するなんて誰が信じていたか!プリプリ泳ぐシンキングミノーよりもリップレスの泳いでいないように見えるルアーの方が釣れるなんて誰が信じていたか!今のシーバスマガジンは他の雑誌よりは探究心があるものの数人のアングラーに支えられているだけであとは脂ぎった中年男性の自慢ページが主になっている。
船釣り雑誌に至っては前年の記事と入れ替えても何ら違和感のない体たらくである。
将棋は確定、完全情報といった要素を活かし「感覚の言語化」能力を発達させエポックメイキングな発見をして地平を切り開いてきた。
だが、ここに現れたのがコンピュータである。先日行われた第3回電王戦では対コンピュータにトップ棋士が1勝4敗を喫し、またも棋士の威信が崩された。
ただ私が注目しているのは棋士の威信や、勝敗というよりも将棋というゲームの「面白み」がなくなってしまうのではないかということである。
棋理の発見に至る過程とその発現が棋士の一番の面白み(観戦者は人によって異なる)であったはずだがこれがコンピュータに解析されてしまうのではないか。
答えがある中で指すことになってしまうのではないか。
現時点から数年は棋士が何十年とかけても発掘出来なかったものをコンピュータが次々と発掘していくだろう。その間は刺激的ではあるが、その後荒野となる。
ここに至って釣りの無限不確定不完全情報ゲームであるからこその強み、未来永劫続けることが出来る釣理の探求という優位性が想起されてきたのである。
私達、各々が釣りの中での要素を抽出し、その中で理を組み立てていく。その理が正しいものであるかを確認していくという楽しみ方が未来永劫続くであろう。
加えて言及してこなかった二人零和という要素がないこと、結果(釣果)が出ることも自然の理に迫っていると感じさせてくれる要素である。
先に投稿した「シロギス釣り再構築」というのは私なりにシロギス釣りを可能な限り有限、確定に落とし込み、シロギスの特徴を開示し完全情報に近づけたものである。
難しく言っているが抽出すべき要素を確定させその中で合理的に考えたものである。例としてご覧いただければと思う。