電王戦から釣りの面白さ、掴み方を考える。
釣りという趣味を持つと同時に、指せないのに関わらず将棋メディアにも目を向けてきた。ずっと将棋が羨ましかった。
将棋のゲームとしての分類は二人零和有限確定完全情報ゲームである。
有限:選択肢が限定されていること。
確定:指し手の意思以外ランダム要素が入り込まないこと。
完全情報:状況の全体像(そこに至るまでの情報)を指し手も観戦者も確認することができる。
将棋は二人零和有限確定完全情報ゲームの代表であるが、選択肢が有限とは言いつつも10の220乗の選択肢があると言われており、コンピュータを駆使したとしても最善手を得ることは難しいと言われてきた。チェスはコンピュータに攻略されたが、将棋が攻略されることは何時になるか想像がつかないと言われていたのが10年前である。
プロ棋士は確定、完全情報という要素を用いて論理的に帰納的に指し手を追求するがそれは無限の選択肢から抽出した手であるので感覚的でもある。
将棋界では羽生善治が七冠取得後、勝負ではなく棋理の追求にこだわることを明言し、確定、完全情報という強みを活かす知の共有を意図的に図った。自分の考えを全て開陳したのである。将棋界は情報社会の最先端の実験場となった。
このことにより、長年悪手といわれていた手が十分通用する手であるとか、曖昧模糊であり約束事となっていた序盤が勝敗を分けるキモであることなどが判明し、将棋というゲームの時間が大幅に進められた。
この分からなかったことを掴んでいく過程こそが答えを知ることよりも面白いことだと棋士および将棋界の人間は感じてきただろう。
釣りにもこれは言えて釣果ではなく釣りの本質に近づくその一歩こそが最高の満足感を与えてくれるものであると考えている。
一歩を掴むまでのスタンス、方法について将棋と釣りは共通するものがあるとしてシンパシー、知的興奮を感じ将棋界の動向を書籍で追っていた。
将棋界を羨ましいと思っていたのは競技者、メディアの「感覚の言語化」能力である。
将棋の特性として間口は広いが、奥深さがあることは周知の事実であり観戦者は棋士の解説を通じて戦況を理解することが慣習的に行われてきた。
プロとしてお金を払ってくれる人達への解説をしなければいけないという前提があるため棋士は思考パターンを言語化することが義務付けられている。
この義務と棋士の卓越した頭脳が組み合わされ、抜群の言語化能力の形成、ならびにそれに基づく情報の開陳がなされている。メディアも棋士の思考を一に優先する。
この「感覚の言語化」能力ならびに情報の開陳形式が釣りとの大きな違いである。
釣りは無限不確定不完全情報ゲームであり不確定、不完全情報であるために言語化することが将棋より難しいことに加え、無限、不確定、不完全というこれらの複雑すぎる要素が釣人の技術を相対的に軽んじることにつながり合理的に言語化する能力が問われない。
釣りのテレビを見てみると納得する根拠を示せないのに関わらず一言目は「今日は渋い。」
状況の説明もせずに特定のルアーを使用し「このルアーだから釣れる。」
こんな状況がすぐに散見されるだろう。
言語化が難しい上に、難しい故に釣り人も釣りメディアも「考え方を言語化する」能力が低いのである。
読み物としても映像としても面白いものは殆どない。
目に見えるロッドやリールといった本質から細分化されて決定されるものが本質と比べやたらとフューチャーされるというおかしな状況になっている。
その中ではバス雑誌(basser)は最も進歩的であり、シーバスは10年前からすると遥かに考え方は進歩したが俗化した。シーバスの10年前の黎明期は釣果ではなく、プロセスに焦点があてられており非常にエネルギッシュで刺激的だった。いまだにシーバスマガジン2003年11月号「リバーシーバスの奥義」より読み込んだ雑誌には出会っていない。現在は初心者もそう考えるのが普通になっているが川のU字の頂点でシーバスが捕食するなんて誰が信じていたか!プリプリ泳ぐシンキングミノーよりもリップレスの泳いでいないように見えるルアーの方が釣れるなんて誰が信じていたか!今のシーバスマガジンは他の雑誌よりは探究心があるものの数人のアングラーに支えられているだけであとは脂ぎった中年男性の自慢ページが主になっている。
船釣り雑誌に至っては前年の記事と入れ替えても何ら違和感のない体たらくである。
将棋は確定、完全情報といった要素を活かし「感覚の言語化」能力を発達させエポックメイキングな発見をして地平を切り開いてきた。
だが、ここに現れたのがコンピュータである。先日行われた第3回電王戦では対コンピュータにトップ棋士が1勝4敗を喫し、またも棋士の威信が崩された。
ただ私が注目しているのは棋士の威信や、勝敗というよりも将棋というゲームの「面白み」がなくなってしまうのではないかということである。
棋理の発見に至る過程とその発現が棋士の一番の面白み(観戦者は人によって異なる)であったはずだがこれがコンピュータに解析されてしまうのではないか。
答えがある中で指すことになってしまうのではないか。
現時点から数年は棋士が何十年とかけても発掘出来なかったものをコンピュータが次々と発掘していくだろう。その間は刺激的ではあるが、その後荒野となる。
ここに至って釣りの無限不確定不完全情報ゲームであるからこその強み、未来永劫続けることが出来る釣理の探求という優位性が想起されてきたのである。
私達、各々が釣りの中での要素を抽出し、その中で理を組み立てていく。その理が正しいものであるかを確認していくという楽しみ方が未来永劫続くであろう。
加えて言及してこなかった二人零和という要素がないこと、結果(釣果)が出ることも自然の理に迫っていると感じさせてくれる要素である。
先に投稿した「シロギス釣り再構築」というのは私なりにシロギス釣りを可能な限り有限、確定に落とし込み、シロギスの特徴を開示し完全情報に近づけたものである。
難しく言っているが抽出すべき要素を確定させその中で合理的に考えたものである。例としてご覧いただければと思う。