東京湾あさり

郷愁×ロマン×釣理

失恋ショコラティエの構造(確定版)

失恋ショコラティエが完結しました。

こんなに発売日を楽しみに待っていた漫画はありませんでした。

隙無く理性的に組み立てられているが、感情を揺さぶり読者に語る余地を残している漫画。

最終回を迎え、構造が確定した。

 

まつりの結婚式という大団円を迎えた後、やや唐突に爽太が独白して終止符が打たれる。

何故爽太の独白で幕が引かれるのか。

これが『失恋ショコラティエ』のメインテーマだからである。

「もしあなたを好きになっていなかったら------このチョコレートたちもエクレアもガトーショコラもスプレッドもパンデビスもムースもこの店も何もかもここにはなかった すべてあなたが俺にもたらしてくれた」

この漫画は「恋を糧にする芸術家」の話である。

「恋について」も「男を虜にする女とは(悪女とは)」もメインのテーマではない。

失恋ショコラティエ』はメインテーマとなりえるクラシカルなサブテーマをいくつも内包しており読者をミスリードしやすい。そのため、作者は唐突であっても独白をさせて最終回を迎えさせている。

1巻においても「ソータがサエコを好きになったことでこんなお店が出来たのならそれはすごく価値のある恋愛だよ。僕は認める。その恋の価値を僕は認める」と作者の代弁者であるオリヴィエに語らせている。

徹頭徹尾テーマは一貫しているのだ。

 

テーマを確定させた上で構造の把握に移ろう。

この構造が女性向け漫画としてとても特殊かつ異質で非常に面白い。

前回の記事で書いたが作者の代弁者であるオリヴィエに1巻でこう語らせている。

「ソータはサエコさんのことホントーに好き?」

サエコさんのことは諦めたんだよね?結婚するし恋は終わりだよね?」

サエコさんはフツーの女だよ ちゃんと中身開けてみて目を覚ますべき それでも本当に続ける気だったらフリンの覚悟決めるべき」

以上のようにサエコはフリンの価値がない女であり、現実的に成就するはずがないと断言している。ここでは爽太はオリヴィエの問いに答えない。考えない。

そして物語が進行して爽太はオリヴィエが予言したとおりの状況に直面する。そこで「離婚させて一緒になりたいとか結局そこまで本気でおもってなかったんだよ」とオリヴィエの予言通りの行動を取る。

つまりサエコとの恋は現実的に成就しないということが冒頭で明示されているのである。

(クライマックス近くの7巻でもサエコが店に居着いた際、「そのうち気が済んだらフラッっと家に帰るんじゃないかな」という爽太のセリフに対しオリヴィエは「その方がソータもジツは助かるし?」とツッコミをいれて前提の再確認をしている)

爽太は現実的に成就しないとオリヴィエに言われてもサエコの攻略を進めていく。それが本能的に、また経験則からショコラティエ(芸術家)としての成長に繋がることを知っているからである。

言い換えるとこの物語は爽太が芸術家としての成長のために結末がわかっている恋をして周りを巻き込む話である。

決してサエコは爽太を恋愛ゲームに引き込む悪女ではなく、爽太の成長のために引き込まれたにすぎない。

 

結末を明示したうえで物語を進行するのは「芸術家」の世間とかけ離れた特異性を明確にするのと、こちらのほうが強いであろうが、特殊な構造の中でメインテーマと密接に関連するサブテーマである「恋」を発現させ、これまでと違う角度から描く為である。

ヴァンパイアになり複数の候補の中から繁殖相手を選ぶ『黒薔薇アリス』、男性と女性、両方の性を持ち恋をするのはどちらの性の自分であるかを判断する『放課後保健室』、これらと同様に恋を描くための意匠である。

失恋ショコラティエ』は成就しないと明示されている中での恋だ。

 

次にサブテーマであり最もボリュームのおおい「恋」について見ていく。失恋ショコラティエ以前の漫画において既に作者は「恋とはなにか」というクラシックなテーマに一つの結論を出している。

それは「理性を飛び越えた衝動こそ恋だ」ということである。『失恋ショコラティエ』においても明確に描かれており爽太に「正も誤もない それが恋だ」と明言させている。

構造的に成就しないということが明確に描かれていることに加え、サエコは既婚者であり社会的に非難されること、エレナというパートナーを裏切るということ、ありとあらゆる手を使い理性のハードルを上げることにより、それを越える際の劇的な「恋」を描き「恋」を明らかにしている。

また作者の代弁者であり究極的な傍観者オリヴィエがまつりに恋することも「理性を飛び越えた衝動こそ恋だ」ということの補強である。

 

これだけでも最高傑作になりえるが、「恋」に見えるようなモノ、具体的にいうと「理性的に作戦を練って相手にすきになってもらうこと」についても言及しそことの対比により作者の考える「恋」をより明確にしている。この試みは画期的である。

「理性的に作戦を練って相手にすきになってもらうこと」を明らかにするために作者がとった方法が恋をゲームだと考えているいわゆる「悪女」を解剖して丸裸にすることだ。恋愛ゲームが得意なサエコのような女は恋愛漫画においては、典型的なキャラクターである。ただしこの典型的なキャラクターをここまで掘り下げた漫画は他に知らない。

「爽太くんにあたしのこと好きになって欲しいって本気で思います。他に女の子も周りにたくさんいると思うけど頑張ってあたしのこと一番に好きになってもらおうってそれが『本気で好き』ってことですよね?」

「いやそれは違うでしょ!!そういうのはゲームみたいなものでしょ!?それが遊びだって言うんですよ!野球や将棋じゃないんだから!!」

「えっ でも野球や将棋だってやる人は本気で頑張ってますよ?一生懸命自分を磨いて鍛えて・・・相手の気持ちや自分にできること考えて・・・」

「薫子さん『本気で好き』ってどういうことですか」

この会話に戦慄を覚えた読者は多いはず。作者は「恋」は理性を飛び越えた衝動こそ恋だと規定している。作者はサエコの問いに答えることができるが、答えられる読者は少なかったであろうと思う。せとな説を採ると衝動こそ恋なのであるから衝動を振り返る難しさと鬱陶しさから言語化の機会をとっている人はすくなくて当然である。「恋」に見えるようなモノと対比させ読者に「恋」とはなにかを考えさせているのである。

 

副次的に「恋」に見えるようなモノについても結論をだしている。

「理性的に作戦を練って相手にすきになってもらうこと」を実践しているのは「正も誤もない…」という前の爽太とサエコの2名である。

対比させるべきなのはエレナだ。エレナは登場の瞬間より爽太と同じ「片想い」をしている設定となっていた。この設定が生きるのは恋愛ゲームの勝ち方について考えるときである。

爽太とエレナは配偶者がいる相手に片想いをしているというように設定されている。二人は恋に恋をしている状態であり、作者がいう「恋」の段階には入っていない。

爽太はサエコを陥落させ、エレナはバンドマンに失恋する。この差異は「理性的に作戦を練って相手にすきになってもらうこと」を実践しているか否かである。

「恋」に見えるようなモノにおいてはスポーツ選手のように、棋士のように頑張らないと勝てないということを爽太とエレナを対比させることにより結論づけている。

(エレナの役割としてもう一つある。爽太と比較して最終的に得たものを対比していくとテーマの欄で述べたように爽太はサエコに恋することによって芸術を成就させるが、一方エレナはフードコーディネーターの資格を取ろうかなぁと何も得ていない。これは芸術家と凡人の違いを表している。えげつないと思う。)

 

これ以外にも作者の意図が散りばめられていて語る余地はまだまだある。素晴らしい漫画だと思う。

今回読者を惹きつけたのはやはり「恋」と「恋に見えるようなモノ」への作者の深い洞察である。

「もしあなたを好きになっていなかったら------このチョコレートたちもエクレアもガトーショコラもスプレッドもパンデビスもムースもこの店も何もかもここにはなかった すべてあなたが俺にもたらしてくれた」

このセリフよりも

「正も誤もない それが恋だ」

「薫子さん『本気で好き』ってどういうことですか」

これに心揺らされる。『失恋ショコラティエ』の7巻は作者の恋愛観の到達点である。

贅沢は承知で、より高次元の作品を求めるとしたらテーマである芸術家であることのより深い洞察を次回以降で望みたい。ここまで考える漫画家である。芸術についても考えに考えぬいているであろうと思う。

 

考えさせられ単純に面白く作者の人生観の高みについても畏敬の念を覚えた。

脳内ポイズンベリーの最終回についても期待しています。