東京湾あさり

郷愁×ロマン×釣理

「イントゥ・ザ・ウッズ」私のディズニー観

「イントゥ・ザ・ウッズ」は実験的な意欲作である。

日本公開されて間もないが評判はよくないようだ。何故評判がよくないのか。

作り手が何をメッセージとして提示しようとしているかが不明瞭だからである。

 

「イントゥ・ザ・ウッズ」映画化の意図がどこに在るのか、何故このタイミングなのかが分からなければ自身が持つ「ディズニーの感じ」と真っ向から衝突する。そして意味の分からない映画だと片付けてしまうであろう。

そもそも「イントゥ・ザ・ウッズ」が分かりやすく、合理的であったらディズニーが意図することに反するのだ。

 

【あらすじ】

アカデミー賞®6部門受賞の「シカゴ」の巨匠ロブ・マーシャル監督が、ブロードウェイの生ける伝説=「ウェスト・サイド物語」のスティーヴン・ソンドハイムのロングラン・ミュージカル「イントゥ・ザ・ウッズ」を映画化。 
「イントゥ・ザ・ウッズ」の登場人物は”魔女”に”シンデレラ”に”赤ずきん”、”ラプンツェル”に、ジャックと豆の木の”ジャック”etc・・・。
これは、ディズニーが、おとぎ話を卒業したおとなたちに贈る、世紀のミュージカル・イベント。(「イントゥ・ザ・ウッズ」公式HPより)

 

まずメッセージが不明瞭である理由について考えてみよう。

複数のメッセージが同列に並べられていること。(まとまっていないともいう)

これが不明瞭な理由だ。パンフレットを読めば理由は明確である。本作に関しては作詞家、脚本家のあとに監督という順番で映画化へのキーマンがいるようだ。順番に見ていこう。

ストーリーはあらすじの通り、そこから何を伝えていきたいのか。

 

作詞、作曲スティーヴン・ソンドハイム

「私の意見では、この作品は社会的責任を描いたものだと感じています。」

脚本、原作ミュージカル ジェームズ・ラパイン

「『イントゥ・ザ・ウッズ』は欲すること、願うこと、望むことを描いた物語です。……

最初は自分の欲するものを自分だけの力でどうやって手にいれるべきかというストーリーが、後には、彼らが力を合わせて、どのようにして全員にとってベストなことをやるのかというお話になるのです。」

監督、制作ロブ・マーシャル

「この物語の中には、家族というコンセプト、そして典型的な家族構造が、時が経つにつれてどのように変化していくのかも書かれています。そして作品の最後には、この美しく、ユニークな家族が形成されます。」

 

鑑賞した人はこれだけで疑問が解消されるだろう。三人の様相が作品にそのまま反映されているのだ。混沌とし、すっきりしない理由はここだ。

指揮がとれていない点は完全に映画の失錯だ。

 

登場していない人物がいる。それがディズニーだ。

おとぎ話の語り部はディズニーである。宣伝に使われている「ディズニーが、“おとぎ話の主人公たち”のその後を描いた」の「ディズニーが」というところが多くの観客に足を運ばせる原動力なのは間違いない。

何故「ディズニーが」語ることが餌になるのかは分かりきったことだ。

「“おとぎ話の主人公たち”のそれまでを描いてきた」権威だからである。

ディズニーが「イントゥ・ザ・ウッズ」を制作する意図はどこにあるのだろう。

 

ディズニーはこれまでおとぎ話をどのように語ってきたのか、どう大衆へ浸透させてきたのか、ここから考えることとしよう。

「シンデレラ」を取り上げよう。

信じれば夢はかなうということがメッセージ。そしてプリンセス映画は王子と結ばれて夢がかなう明確且つ単純なストーリーラインを基礎に、ファンタジーと、逆境で色付けをあたえる。

信じれば夢はかなうというメッセージを同じ方法を用い、おとぎ話を下敷きにした様々な作品にのせて発信してきた。メッセージおよびディズニーの方法論はもはや世界中の人々にとって自明のこととなっている。

おとぎ話を単純で無毒なストーリーラインに置き換えること。

これがディズニーがとってきた方法である。

ウォルト・ディズニーの存命中から批判されていた方法でもある。

「人類の無限の可能性を陳腐なコミックに仕立てあげ、また昔ながらのまがいものの人生を真似て、真実の人生の可能性を否定している」

ウォルト・ディズニーの映画が芸術を『無菌化』していると感じるのは、評論家だけではなかった。」(想像の狂気 ウォルト・ディズニーP553)

無菌化をディズニフィケーションという。

しばしば批判の対象となるディズニフィケーションについて私は捨象し単純化することはメッセージを発信する手法として賞賛されるべきでありディズニーの強さだと思っている。自身の価値観を絶対視し価値観が伝わる方法を模索してきた集団がディズニーだ。

私の嗜好としてはディズニーが発してきた「メッセージ」には共感するが、ど真ん中ではない。

だが、方法の模索をドライブさせるイマジネーションへの信仰、ディズニー用語でいうと想像力と技術力を融合させた「イマジニアリング」への自負と、自身の人生観を「ぶらさない」どころではなく「社会において当たり前の価値観としてしまう」自分本位、この2つについては深く心を動かされている。(Fantasmic! はど真ん中)

「テーマが見つからなければ、人を感動させるような映画はつくれない。」

「ディズニーランドは完成することがない。世界に想像力がある限り、成長し続けるだろう。」(ウォルト・ディズニー

 

ディズニーが「イントゥ・ザ・ウッズ」を何故このタイミングで映画化したか、自身が練り上げてきた方法が共感を呼ぶことが難しい状況となっているからだ。

ここでいうのは特におとぎ話をモチーフとした作品のことをいう。

ディズニーは自らの方法を絶対視することはなく、「方法」を皮肉るという手段をとることによりメッセージを伝えるという手法も利用している。

方法に固執しているということは全くない。

魔法にかけられて」がその態度を端的に表すし、「アナと雪の女王」については散々言われている通り、これまでの方法をモダナイズしたものである。

興行的に大ヒットはしているが、「アナと雪の女王」で見せたストーリーラインはこれまでどおり女の子たちの理想像となるであろうか。

価値観が多様化したことにより全女性共通の価値観を提示することは難しい。

アナと雪の女王」では価値観が古くからそう変化のない姉妹愛で終幕となったが、姉妹愛は日常の延長である、これまでのキス、結婚というターニングポイントとは性質を異とする。「アナと雪の女王」のストーリーは女の子たちの憧れにはなりえないだろう。エルサが自分本位に生きることを決めた瞬間をラストに持ってくることが出来ればそれはディズニーが提示した生き方となっただろうが受け入れられただろうか。

 

ディズニーがこのタイミングで「イントゥ・ザ・ウッズ」を映画化することは、今後の方法についての態度を観客に表明することだと私は思う。

自分自身との対話であるとも言えるかもしれない。

マレフィセント」はすでに次は「シンデレラ」をリメイクするが、それはクラシックを現代によみがえらせる作業である。

「イントゥ・ザ・ウッズ」はおとぎ話本来の可能性を探求する作品だ。

つまりディズニフィケーションがなされる前のおとぎ話の効能について光を当てている。これはディズニーがやるからこそ意味がある。

おとぎ話には説話と、不条理が同居する。不条理というのは論理的ではないということ。現実の人生は合理的に納得して進むものではない。

不条理が現実を包含させる役割を果たす。

「イントゥ・ザ・ウッズ」は明らかに不条理を描こうとしている。

悪いことをしていない巨人を殺す。舞踏会から3度逃げ出す。妻の唐突な死。

ストーリーに納得いかない?それはそうだ、本来の「おとぎ話」への回帰なのだから。

方法を限定しないところがディズニーの強さであるが、今回は観客にとってショックが大きかったようだ。ある意味これまでの方法とは真逆の方法をとっているのだから。

ディズニーでなければ巨人からモノを盗むところでこれは不条理を描いているのだなと観客も諒解して見ることが出来たかもしれない。

ディズニーが「それまで」のように「そのあと」を描くだろうか。ディズニーはそんなに甘くない。イマジネーションをドライブに停滞しないのがディズニーだ。

 

さて、おとぎ話を描いたという観点でみるとストーリーのまとまりの無さも納得がいくはずだ。この心が落ち着かない状態がおとぎ話の効能なのだ。

 

浦島太郎が竜宮城にいくだけの話なら子供たちはその後記憶しているだろうか。

(何故ミュージカルの評判がいいのか考えれば、多くの人が陥穽にはまることはないと思う。おとぎ話であることを前提に観劇しているのだから楽しめるのだ)

世界はディズニーが想像する以上にディズニーの方法に囚えられている。

ディズニーが発してきたメッセージ以上に囚えられているかもしれない。

 

この後「シンデレラ」「ピーターパン」「不思議の国のアリス」「ラプンツェル」「ダンボ」と実写化が控えている。単純にリメイクしてもある程度通用すると思うが、ディズニーはそう簡単なことはしないだろうと信じている。

ウォルト・ディズニーは「自分の映画を作るのは好きではない。私は新しいものを見つけて、新しいコンセプトを開発するのが好きだ。」と断言しているのでここ最近の安直に続編をつくる傾向は堕落であると思うがね)

「イントゥ・ザ・ウッズ」は観客への「我々は固執しない」という宣誓だと私は信じている。