東京湾あさり

郷愁×ロマン×釣理

ジャスト・ア・ゲーム(釣りと悟り)

ゲームの良さはゴールが明確に設定されていることだ。

仮説創造の余地が十二分にあり、そして仮説に迫るまでのプロセス、もしくは解答をゲーム外に波及することができるゲームこそが普遍的なゲームとなりえる。

 

羽生善治は将棋について「ジャスト・ア・ゲーム」と言い切った。

人格と将棋の強さに相関があるという棋界に存在していた風潮における「酒、女、バクチは人格涵養の一部である」という言説に対しての文脈である。

ここから19才の天才ゲーム解析士の躍進が始まった。

この「ジャスト・ア・ゲーム」についてはその後の羽生の活躍もあり、現在では肯定的に捉えられている。要因は羽生のゲームの強さだけではなく、むしろ羽生なりのゲーム観、ゲームの楽しみ方が他者のゲーム観と比較し確立されていたことだろう。

羽生にとっての将棋の面白さは盤上からで十二分に得られるものであり、その主張に対して横槍を入れる思想については排除するという自分本位が見て取れる。

「ジャスト・ア・ゲーム」とは言いつつも楽しみ方については規定していないところがこの台詞の妙であろうか。

 

私が普段から行っているゲームは釣りである。釣りの魅力はと自身で問うた答えが本ブログの説明になっている「郷愁×ロマン×釣理」であり、このフレームであれば釣りの魅力を漏らしていないだろうと現時点では考えている。

 

「釣理」とは釣る理屈であるが、如何に技術が発達したとしても現時点では何故魚がそのルアーに食いつくのか、どのタイミングで喰いが立つのかということは誰も確定できておらず経験に頼っている。

 

本稿で述べたいのは因果関係の仮説を積み重ねていく時のプロセスについてである。

このプロセスが釣りを東洋思想にフィットする深淵な趣味にしていると常々考えている。

因果関係をイメージするのが直感的に難しいのが釣りである。

例えばということで挙げてみると将棋の詰め筋、あるいはスマッシュブラザーズのダメージの与え方というのは論理的に辿れ、再現性があるものであるが何故釣れるのかというのはイメージしづらくないだろうか。

釣りをしている方は釣りをする前の経験値がない感覚に戻って欲しい。

アオイソメを食べるハゼのイメージならば釣りをしていない人であってもイメージ出来ると思うが、糸へのアタリの出方とハゼがエサを食っているということを正確にリンクさせるのは難しいのではないだろうか。

ハゼ釣りではプルプルの前のチクッっとした感覚を取れるかで釣果に大きな差が出るがこれは吸い込んだ瞬間が微かに感じ取れるということを信じられているかイメージを持っているかの違いなのである。

他にもルアー全般がそうであるし、鯛ラバで釣るのも何故釣れるかの因果関係のイメージが人間には難しい。何故上手い人間が釣れるかというと経験から因果関係のイメージを確立し派生させているからである。

脆弱な因果関係のイメージを感覚的に強固にしていく作業は一種の「悟り」というのではないだろうか。西洋哲学的な論理関係を理解すれば分かったということではなく論理抜きにわかったと思えば大悟であり、見た目ではわからないが以前とは違う自分になる。

禅僧に比べると悟りは小さな規模かもしれないが、この悟りを得た時の幸福感とそれをもとにして仮説をバージョンアップさせていく点が釣りのゲームとして特異である点なのではと思っているのだ。因果関係をイメージしづらいことからくる実感の重要性が成り立っているのだ。これが性別、年齢、知性問わず全人間が体験できるということも特異なゲームなのではないだろうか。

思考のブラッシュアップを単独で出来るという点も良さであろう。

私は大学生のとき年間300日川にいた。

 

ダイワ精工が提供している「The fishing」というテレビ番組の30週年記念の回で、海のルアー釣りを世に広めた村越正海とダイワが若者を若年層のうちから釣りに親しめようと運営しているヤングフィッシングクラブからの抜擢であろう若者が「釣りとは何か」最後にまとめとして問われていたが、村越正海が「人生そのものであり考え方などベースは全て釣りにある」と答え若者は「コミュニケーション拡張のツール」であると答えていた。

若者は情報消費社会の代表であると感じ、村越正海には釣りが確定情報を使用するだけのゲームではないことを代弁してもらった気になり共感したのであった。

どのゲームに共通することでもあるが結果だけではなくどれだけ楽しめるかが重要なのだ。羽生善治が「結果だけでいいならジャンケンすればいいとおもいますよ」と言ったように。