失恋ショコラティエについて①
失恋ショコラティエ、脳内ポイズンベリーが次巻で最終巻となる。
提示されるラストを受け入れるだけではなく、最終巻が出る前のこのタイミングで、思考の触媒となったシーンから自分なりの結論を導き、それをラストによって打ち壊されたい。まず失恋ショコラティエから整理する。(言及するのは現時点でのコミックス最新刊である8巻までとする。)
水城せとな先生の漫画が好きなのは「主題がある」からである。
コミックス7巻の巻末コメントで作者自身が語っているように考えすぎな漫画である。
登場人物の心情を俯瞰で捉えており、登場人物への主観的感情、肩入れは感じられない。
あくまでキャラクターは作者が「考えすぎて」到達した一つの結論を読者へ伝える為の駒の一つとなっている。客観的に物事を捉える男性的な思考パターンであるとも言える。
この思考をベースに「登場人物の感情の動き、思考」を精しく繊細なカットで描写し、同時に洗練された言い回しで言語化し、読者は主題に直截的に直面しているとは感じぬまま瞬間的に心を動かす。
その到達した結論の深さと、深さを増幅させる表現力にゾクゾクさせられる。
4巻の巻末コメントにおいて
「これこそ普通、ミズシロ史上最もフツーのお話ができた!…まぁ逆に、読者さんが楽しんで下されば別にどっか変でもいいや!と思っていますけど✿」
このコメントは主題を的確に面白く伝えることができれば、意匠にはこだわりがないことをあらわしている。
「普通の人の考を聞いて見ると小説家は女の衣装やら、髪のもの、または粋人や、田舎者の言葉の遣いわけをやって達者に文章をかくものだと思っているが、それは浅薄な考です。普通の小説を作るものの資格は、第一が、人間の行為行動(それは大部分道徳に関係があります)を如何に解釈するかの立脚地を立てるにあると思います。だから学問がなければならぬと思います。学問がなくとも見識がなければならんと思います。むずかしくいうと人生観というものが必要になります。」(夏目漱石 『文学談』)
次回以降で失恋ショコラティエの構造の整理、主題に付随するサブテーマへの私の見解の披瀝を行ってラストを待ちたい。