東京湾あさり

郷愁×ロマン×釣理

失恋ショコラティエの構造

 まず構造を読み解くにあたって重要なのがオリヴィエというキャラである。

オリヴィエがこの漫画の狂言回しであり客観的で正確な状況判断を行い、進行中のストーリーについて作者と読者の認識を一致させる役割を担っている。

私はここまで考えて書いているけどわかってる?わかってなさそうだからオリヴィエを使って解説しよっかな?という手法である。オリヴィエが外国人でカタコトの日本語を使ったりアニメオタクであるという設定は作者の意図を伝える装置であることを隠す意匠である。

(同時に連載している「脳内ポイズンベリー」では作者の思考を今回のオリヴィエのような最適解だけ提示するのではなく理性的に決断を下す前の瞬間瞬間の作者の思考を描こうとしている。)

オリヴィエは物語の進行には介入しない。

あくまで物語の進行は爽太の主観的行動が担っていく。

 

 爽太は「学年一のイケメンを食い倒してきた何を考えているのか分からない女を陥落させること」をゴールとして「敷居を少し高くして向こうから寄ってくるようにする」

方法で達成を目指す。これが物語を進行させていく爽太の主観である。

敷居を高くすれば向こうから寄ってくるかもしれないというのが爽太のサエコの分析であり、分析が正しいのか、攻略が上手くいくのかに読者は惹きつけられページを進めていく。

 

 一方でオリヴィエが1巻の爽太が敷居を少し高くして向こうから寄ってくるようにする作戦を決行しようとするその瞬間をどのように認識しているかというと

「でもサエコさんのことは諦めたんだよね?結婚するし恋は終わりだよね?」

「このチャンスにサエコさんウチに呼んでやっちゃいなよ!っていうかねソータはサエコに夢見すぎ。サエコさんはフツーの女だよ。ちゃんと中身開けてみて目を覚ますべき。それでも本当に続ける気だったらフリンの覚悟きめるべき」

以上のように既婚者であるサエコとの恋が現実として成就したとしても、フリンとなり社会的に祝福されないこと、また爽太が憧れているサエコについても憧れの存在ではなくフツーの女であり、フリンの価値がないことを示唆している。

 

 ただし、爽太は主観的に動く。どんなに客観的視点を持っている人間でも当時者となれば主観的に動く。狂言回しの役割をあたえられているオリヴィエがまつりのことになると感情的に動いてしまうのはこのことを強調する為である。

 予想として最終巻は、1巻ですでにオリヴィエが明言した客観的現実と向き合う巻となるだろうと予測している。

 オリヴィエを用い、爽太が作戦通りサエコを陥落させたとしても大団円はありえないことを読者に提示した上で物語を進行させる。ここが構造として面白いところで、水城せとな先生の「正しいか正しくないかは大した問題ではない。そこを乗り越えた主観的行動こそが面白さである」という主張がある。 

 オリヴィエがこの漫画の狂言回しであり客観的で正確な状況判断を行う。と書いたが俯瞰的に見ている水城せとなの代弁者なのである。

「(サエコがろくでもない女だとしても)ソータがサエコを好きになったことでこんなお店が出来たのならそれはすごく価値のある恋愛だよ。僕は認める。その恋の価値を僕は認める」